昭和四十五年二月二十五日 御理解第四十五節


X「世に三宝様(穀物の意)踏むな、三宝様踏むと眼が潰れると言うが、三宝様は、実る程かがむ。人間は身代が出来たり、先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。神信心して、身に徳がつく程屈んで通れ。兎角出る釘は打たれる。よく頭を打つと言うが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから、頭を打つ事はあるまいと思うけれど、大声で叱ったり、手を振り上げたりする事はないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取り外すぞ。」


 実意な心、丁寧な言葉と態度、私はその事に言わば尽きると思うのです。実意な心と丁寧な言葉と態度。只、言葉と態度と、例えば中々丁寧な言葉使い、丁寧な態度をする人は有りますけれども、それは形だけの事になりますから、やはり、その内容として、実意な心と言うのがなからなければなりません。いわゆる、ここにも言うておられます様に、実れば実る程、頭が下がるという、実れば実るという事が実意な心だと思います。
 教祖様が教えて下さる実意な心、実際に実っていっておる。いかにも実っておるようであっても、実がない。やはりそれは、頭を下げる事を忘れる。神信心して実に徳がつく程とおっしゃいますが。
 そこで、私共、きたない表現と申しましょうか、態度といったようなものが、自分が実意がない証拠だなあと、実ってない証拠だなあ、内容が無い証拠だなあという風に思わなければいけない。
 私は今日御祈念中、三木のり平ということを頂いて、そしてこの四十五節を頂いた。三木とは、三つの木、いわゆる有り難き、勿体なき、恐れ多きの事であろうと思います。のり平という事は、徳平と頂かねばならんと思います。いわば徳を頂けば頂く程、平い、又は平伏の意だと思いますねえ。実意な心、丁寧な言葉と態度という事になるでしょうねえ。 そこでやはり、どうしてもここに、三木、有り難き、勿体なき、恐れ多き、ということが、私共の内容にならなければならん。勿論、有り難いことだなあと、勿体ないことだと、恐れ多きことだと。
 昨夜、大和さんの所の謝恩祭がございました。あちらで話した事ですけれども、これがもし、毎月、月次祭でも、仕えられておるとするなら、これはもう、大祭というべきだと、私は申しました。もう、本当に大祭のようなお祭りでした。
 御神前の雰囲気といい、参拝者の雰囲気といい、又は眼には見えない、大和さん達夫婦のお祭りに対する心の込めようといい、本当に大祭という程しの心で私はお祭りを奉仕しました。
 帰りに、正義さんの車で帰りました。車の中で正義さんが、話をしますのに、もう最近は、いっぱしの御用を頂いておる、今、勿体島から椛目にかけての川を、深めたり、コンクリート打ったりしているらしいのですけれども、本当にその仕事の進みようというか、仕事の出来上がり具合が、専門的に、私がみても、毎日毎日現場を回る時に本当に、有り難いなと思いますと。一辺通り回らせて頂いて、仕事着なりではありますけれども、ちょっとお礼参拝させてもらはなければおられないという、実感でございますと、こう言う。
 第一、これはお取次ぎ頂いて、お願いさせて頂いて居る事ですが、第一、人夫さんの手が揃わなければ出来ない事ですからねえ。沢山の自分の手にはばかりない程しの仕事を、おおせつかった。もう途端というてよい程、二つのグループから、使ってくれと、いわゆる、まとまった人達が言うて来たそうですねえ。もう、私がしとるとは思われません。本当に神様がしおって下さる証拠だという意味のことを、あの人流にですねえ、それこそ、実意丁寧な、言い方でその事を言っております。
 有り難い事ですねえ。仕事着のままでも、お礼参拝させてもらわねばおられんと、本当にそうだろうと思います。ですから、そういう例えば、おかげの中にあるという時には、お互いが本当に、実意丁寧、いわゆる、有り難き、勿体なき、その心が、そういう丁寧な言葉にも、丁寧な態度にも表れてくる訳でございます。
 ですから、本当にお互い神様のお働きを頂いておるしるしだと、思わせて頂くようなおかげをね、本当に頂かにゃいけん。
 又、売れた売れたと言うような繁昌のおかげを頂いた。自分の思う以上にどんどんおかげ頂いたと、おかげ頂いたと言うても、何とはなしに、おかげを頂いたという事が、言うなら、調子に乗り過ぎてついつい、いかにも自分のやり方がよいから、繁昌しておるように思うて、その思いがもう、実意を欠いておるのであり、そこから丁寧を無くしたり、丁寧な態度が、それこそ脇から見とっても、見苦しい態度が生まれたりしてくるのじゃないだろうかと思います。
 そこで例えば、今日の御理解四十五節の、世に三宝様踏むなと、三宝様踏むと眼が潰れると、そのようなおかげを頂かせてもろうて、いつも有り難い、勿体ない、そこに自ずといわば頭の下がる程しに、神様の前にそれこそ、仕事着なりにでも、お礼に出らなければ居られない、というそういう心の状態、そういう形が表される。
 私はこの世に、三宝様踏むなという事は、信心しておかげを受けて、其のようなおかげを頂くと、そういう事になるが、それとは、言わば反対の事、例えば正義さんの事で例を言うなら、仕事が思う様に順調にいかない、いうなら一生懸命頼んで、人夫を沢山集めた、自分の見て居る所だけは、具合いようやっていきよるけれども、見て回ってない時には、目に余るような仕事ぶりであると、いたしましょうか、例えば、昨日、正義さんがいう反対の場合。
 天候なら天候の上にでも、自分の思いとは反対の、ああいう仕事は、天候あっての仕事ですから、いうなら右と願っても左といったような時、仕事が本当に実が上がらない時、そういう時にです、言うならお前だん何しよるかと、俺がおらん時にはこげな仕事してからと、例えば人に言うような事、又は、天候とかいう自然の働きに致しましてもです。これ程お願いしているのに、これだけ信心するのにと言ったような心が起こってくるとするならばです、それはもう、正に三宝様を踏んでおる訳であります。
 いうならば、三つの三喜ですねえ。有り難き、勿体なき、恐れ多き、言わばふんずけておるようなもの。
 ここに、三宝様と言う、つぎにカッコをして、穀物の意と、書いてありますねえ、三宝様踏むと目が潰れる、私共でも畳にこぼれたご飯粒なんかでも、いちいち拾わせられて、御飯粒を踏みつけると、目が潰れるとか、足が額ぐちにつくとかと、言う風にいわれて、拾うて頂く事を教えて頂きました。同じ事なんです。
 ですから、ここでは穀物の意とありますが、これは、三宝、三つの宝と。私共が信心をさせて頂いてですねえ、一番尊いもの、それこそ宝ものにも等しいもの、それはです、私共がです、それによって信心を分からせて頂く力を頂くと言う、それによってという事なんです。
 言うならば、甘木の初代が仰せられたという事ですけれども、何十年かの記念式年の時に、ご挨拶になった。当時は日本一と言われる程しの高徳名先生であった。先生がおっしゃるのに、「安武松太郎、私が願うた事が願うた通りになっておったら、今の甘木はなかった」とおっしゃった。今の安武松太郎はなかったと、おっしゃった。右と願えば左、左と願えば右という時代が、その時代です。現在の甘木の土台が出来た。甘木がおかげを受けたんだという意味の事をお話しになったという事です。いかに三宝様を大事にされたかという事が分かるでしょう。
 右と願っても左、左と願っても右、言うなら、思う様にならんと言う事、願い通りにならんと言う事。そういう願い通りにならんという、願って出てくるその答えをです。大事にされた訳です。それが宝なんです。宝でしょうが。それが、後々にあの甘木王国いわれる程しの、御比礼の元になったんですから。宝でしょうが。正に三宝様、そこんところをです、有り難き、勿体なき、恐れ多きで受けられた。
 昨日、大和さんの所で聞いて頂きましたんですけれども、信心のお育てを頂くという事は、お願いをした、おかげを頂いた、有り難う御座いましたならば、誰だって言うぞという事。やっぱ神様のおかげじゃ、あらたかなもんじゃあある。これは、神様のおかげに違いないと思われる程しの、おかげをですねえ、あれを願って頂いたら、広大なおかげを頂きましたと、それは、子供がおやつをもろうて、喜ぶようなもんぞと、例えば、そういう信心が五年も十年ももし続くとするなら、それはひとつも信心が成長していないんだと。 にがい思いをする事もある。臭い思いをする事もある。けれども、にがい、そのものが、いよいよ心の胃腸を健全にさせて下さる為のせんぷりの様なものだと、臭いと思うておったのは、体中に元気が湧いてくる程しの、例えば、にんにくでも、食べておるようなもんだと。
 そう分るときに、臭い事にだって、又は、にがい思いをする事にだって、有り難いというお礼は、自ずと出てくるのだ。いやむしろ、そういう右と願えば左、左と願えば右といったような時に、いよいよ実意な心、本当の心、しみじみと神様の思いが分らせてもらい、むしろ、袖に涙のかかる時こそ、一般の人は、袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるるというたげな。信心させて頂く者は袖に涙のかかるような時程、神の思いの底がわからしてもらうというて、しみじみとした信心内容が、鍛れていく時なんです。
 心が成長していくという事は、そういう頂き方が出来ていくという事が成長していっておるのだ。ここで、三宝様踏むな、三宝様踏むと眼が潰れると。
 折角信心を頂いて、おかげを頂いた。例えば昨日、正義さんが私に、自動車の中で話してくれるように、どんなに考えても、神様のお働きと思わなきゃおられません。あの仕事の出来上がっていきよる具合といい、さあ人手が要ると言や、丁度、手が空いたという人達が、使うてくれんか、使うてくれんかというて、二組もやって参りました。その仕事を受けた途端に・・・・・神様のおかげには、恐れ入ってしまうなあと、もし、こういうおかげを頂いて居ったら、そこが人間ですから、思い上がりがでてくるです。
 初めの間は、本当に見て回る間に、有り難いと思うて、そのまま仕事着なりにでも、お礼参拝させて頂かなければおられないと言う様なものです、段々無くなった。いわゆる自分に実力が出来た様な思い方が出来てくるんじゃないでしょうかねえ。人間という者は・・・・。折角、有り難いなあ、勿体ないなあ、本当に仕事着のなりにでも、お礼に出て来なければおられないなあ、と言う様な喜びがです。いわゆる有り難いなあ、勿体ないなあがです、いわゆる、心の眼を開いていく訳なんですよ。いわゆる信心の眼を開いていくのですよ。
 その信心の眼が開きかかっていく、いわゆる、信心する者は、肉眼を置いて心眼を開けとおっしゃる。心の眼が開けていきよる、その眼がです、三宝様踏むと眼が潰れるという事になるのです。 
 折角信心の心が育っていきよるのです。今度は思うようにならなかったという事。
 そこんところをです、私はいわゆる、三宝様踏むと眼が潰れると、こう・・・私共はどの位に、三宝様をお粗末にしておる事が一月の上にでもあるかしれませんね。それが、おかげの元になる。それを積み上げていきゃ徳になる。と言ったような事柄を、それこそ、足で蹴ちらかすような頂き方をしておるような事はないでしょうか。
 いや、蹴ちらかすという事はないにしても、それを、大事にしようとしない、という事であればです。
 私は先日、ある方に申しました。一家中が皆信心をする。だのに、息子の嫁ごだけが信心せん。ちょっと体が悪いと言うから、お願いに参らんのと言うたっちゃ、いいえこれだけは、医者で治しますと言う。もう、あいそもくそもなかごたる事を言う。そんなら、お願いをさせていただきまっしょうかてでもいやええが、いいえこれは、医者で治しますと言う。
 そりゃあ、医者にもかからにゃなるまい。薬もつけなきゃなるまい。けれども、薬だって、神様のお恵みなしには出来るもんじゃ無いから、神様にお願いをして、お取次を頂いて、祈れ、薬れでいかにゃいかんばのと、言う風にです。まあ、教えなきゃならんところでしょうけれども、もう、二の句のつがれん、これだけは医者で治しますと、こう言う。 けれども、私は、その事をおじいさんに申しました。けれどもね、あんた方はあの人が、あんた方の宝ばのと、私が。どうした嫁ごじゃろうかと、もし思うとするならばです、もう本当に、脇から聞きよっても、あいそもくそもなかたるけれども。けれども、この人がおかげでです、信心ができますと、言う事になればね。それは宝なんだ。
 先日の熊谷さんのお夢の中のお知らせじゃないですけれども、信心を頂かん息子から、反対にお乳を飲まさせられるところを頂いた。親が子供に乳を飲ませよるというのなら、分かるけれども、子供が親に乳を飲ませよるところをいただいたと。
 自分の思う様にならん、言う事を聞かん、信心をしてくれりゃええけれども、信心せん。そこんところをです。例えば、おかげで信心が出来ますと、おかげで信心が成長しますと、言うなら、やはり、ままにならない、その事がです。わたしに乳を与えてくれておる事と同じ事でしょうが。
 だから、そこにこそお礼の心が出来なければならん。そこにこそ、その事にです。実意をもって、いわゆる実意な心をもって丁寧な言葉、丁寧な態度をもって、接しなければならないという事がわかります。
 そこんところをです。もう、言うたっちゃ分からんものは分からんから、と言うて、ガミガミ言うたっちゃなお分からんから、まあ、言葉優しゅう丁寧に言うたりするだけではいけない。実意な心がなからないかん。その実意な心がです。本当な事ということなんです。この人のおかげで私が信心が育てられておるという心なんです。
 だから、その事をです。三宝様として大事にしなければおられない事になってくるのじゃないでしょうか。私共は信心内容がお粗末でありましてもです。ただおかげを頂いたら頂いたでです。それこそ調子にのりすぎて、浮いた浮いたといったような心になる。誰でも人間は、そんなもんなんです。けれども内容がなしにおかげを受けるから、それなんです。 そこで、内容作ることを第一としてです。それが右と願ったことが左であっても、そのことの本当の、いわば真相とでも申しましょうか。真相が分かり、神様の願いが分かり、悟らしてもろうて、その事に対してお礼を申し上げれれる信心、そういう信心が育っていくという事が、私は、本当の信心が成長していきよる姿だと思います。
 有り難き、勿体なき、恐れ多きと、本当の意味でのそれはです。おかげを受けて勿体ない事だと、正義さんが言っておる。それも、それに違いはありませんけれども、それとは反対なことが、例えば起きて参りましても、その事にたいしてです。いよいよ自分を深めさせてもらい、いよいよ自分が反省させてもろうて参りますならば、その事自体が、例えばその事のおかげで、反省ができた、自分が深められたという事だけでも、やはり宝ですけれども、実を言うたら、それが本当は神様のお姿であった、神様の声であったと・・・。それが三宝様としての、本当に三つの宝と思われる程しのおかげになってくる。
 私が願うたことが、願うた通りになっとったら、現在の甘木はなかったと、甘木の初代がおっしゃったという事がよう分かります。
 いかに思うようにならない事、難儀な事、その事をです。いかに実意な心と態度と言葉でお受けになっていかれたかと思います。
 今日は皆さん、そこんところをひとつ、とりわけね、一番初めに申しました、実意な心、同時に丁寧な言葉と態度、それが欠けようとする時には自分の内容に実がない事を悟らせてもろうて取り組んでいきたいと思いますね。どうぞ。